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2019年7月

英語の豆知識 第十回: オーストラリアの英語

今回は南半球に視点を移してみたいと思います。南半球の英語圏で存在感がある国はオーストラリアです。面積は世界の陸地の5%を占める広大な国です(日本はちなみに0.25%)。

イギリスからオーストラリアに本格的な移住が始まったのは18世紀のことでした。18世紀後半から19世紀は、イギリスから世界に英語が広がっていった時期になります。オーストラリアだけではなく、アメリカ、カナダはもちろん、ニュージーランド、南アフリカ、インド、シンガポール、香港、フォークランド諸島などなど。中でもオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの3か国については、同時期に同世代の人々が渡ったこともあり、これらの地域の言葉には共通の特徴が見られるといいます。

19世紀中盤(といえば、ワーテルローの戦いやアメリカ独立戦争の時代。日本では江戸から明治に変わる時代。)までにイギリスを離れた人は700万人に及びました。国を離れる動機は人それぞれ。貿易のため、兵士として戦地に赴くため、船乗りとして、宣教師として、探検家として......。そのほとんどは、経済的な理由や社会的な理由がきっかけになっています。半数はアメリカに渡り、150万人ほどはカナダに渡り、100万人ほどはオーストラリアに、残りはその他の地域に散らばって行ったそうです。

この時代のアメリカやカナダについては以前ご紹介しましたが、オーストラリアはどのような状況だったのでしょうか。

最初の大規模な移住が始まったのは1788年に入って間もなくのことです。イギリスから船でおよそ8か月かけて1000人近くの人々が上陸したのは、南東部ニューサウスウェールズの「ボタニー湾」周辺でした。上陸した内の4分の3は流刑に処せられた罪人で、1期につき7年の刑期が科せられていたといいます。

これに先立ち1770年には、探検家のジェームズクックが今のクイーンズランドにある「エンデバー川」をさかのぼっていました。そこにはアボリジニーが多く居住しており、探検隊が現地人とのコミュニケーションに使ったのはピジン(第六回参照)でした。クックはピジンを頼りに、交渉事に役立ちそうな彼らの言葉を多く集め、記録しました。クックによる言葉の収集、記録はとても丹念なもので、それなりに価値のある資料を完成させていたといいます。しかし、アボリジニーの言語はひとつだけではなく、実は何百もあることには、この時全く考えが及びませんでした。

時が経ち、1788年の大規模な移住でやってきたイギリス人たちは、このクックの資料を頼りに現地人たちと交流を図りますが、全く通じません。彼らが上陸したのは「ボタニー湾」で、そこでは「エンデバー川」のアボリジニーとは全く異なる言語が使われていることがわかったのです。

ジェームズクックが収集した言葉の中には、あの kangaroo という言葉が含まれていましたが、「ボタニー湾」周辺のアボリジニーたちにはこの kangaroo という言葉は通じなかったのです。その結果、アボリジニーたちは kangarooを「白人たちが連れてきた牛や羊を総称する言葉」として認識して使用するようになり、牛を見ても羊を見ても「kangaroo !」と言うようになったといいます。

さらに年月が経ち、別の探検隊が「エンデバー川」を訪れました。彼らはクックの単語集を携帯しており、この時は言葉の意味は通じるものの、こと kangaroo については「今の我々が普通に思い浮かべるあのカンガルー」としては通じなかったという記録があります。となると、この kangaroo という言葉はどこから来て、どういう経緯で単語集に収録されたのでしょうか。これは未解明のまま今でも残されているようです。