フランス・パリ「ノートルダム大聖堂に寄せて」(後編)|翻訳者派遣会社が送るエッセイ 未知しるべ

翻訳者派遣会社が送る、世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ

フランス・パリ「ノートルダム大聖堂に寄せて」(後編)

パリ・ノートルダムへの道

未知を求めて世界を旅するヤマ・ヨコのエッセイ。2019年4月に発生したノートルダム大聖堂の大規模火災に蘇ったパリでの記憶をたどる後編、今回は"人に歴史あり"を実感したファストフード店での一コマをお届けします。

初めてのパリには多くの思い出がある。

お金がない学生時代だったから、食事もバゲットサンドやスーパーで買ったお惣菜をリュクサンブール公園のベンチで食べるか、店も人も垢抜けないが、笑顔がチャーミングなアジア系の親父さんがやっているファストフード店に行くことが多かった。決まって頼むのは「ジャンボン・フロマージュ」(フランス語でハムチーズの意)で、たまに親父さんがジャスミン茶のサービスをしてくれたりした。

ある日、若い娘と店番を交代した後、親父さんは私の隣に腰掛け、問わず語りにパリに流れ着いた経緯を話し始めた。もともと華僑としてカンボジアで暮らしていたが、ポルポトが率いるクメール・ルージュの虐殺の手が迫り、命からがら逃げてきたというのだ。乳飲み子を連れて3日3晩寝ることもなく歩き続け、冷たい川を胸まで浸かって渡り、隣国のベトナムに脱出し、そこから親戚を頼ってパリへと来たという。ほとんどフランス語が話せない私にも伝わるように、「アー、アー」と乳飲み子が泣く様子をジェスチャーを交えて語る様子に、戦争の影を身近に感じた。
「それが、あの娘さ、今はパリ大で経営学を学んでいるんだ」と、カウンターに立つ女の子を指差してみせる。「あー、そうだったのか」と少し安堵する。親父と違って彼女はニコリともすることなく、テキパキと客をこなしていく。 故国を戦争でなくし、大きな傷を負いながらも、娘にはきちんと教育を受けさせたい、自分とは違う人生を歩ませたいと、身を粉にして働いてきたのだろう。娘はパリ大で経営を学び、情緒よりも効率が大事という結論に至ったように見える。

それから約10年後

給料をもらえる身になった私が再びパリを訪れた時。「サン・ミッシェル・ノートル・ダム駅」から今度は北へ、ノートルダム大聖堂があるシテ島の方向へと歩き出した。ノートルダム大聖堂に挨拶をしてから、横を通り、後ろ姿を拝みながら、隣の島であるサン・ルイ島のアパルトマンに宿をとった。親父さんの店はどうなっているだろうと、行ってみると、そこは看板もメニュー表も一新され、若い女性たちがマニュアル通りに客をさばく普通のファストフード店になっていた。バックパッカーも入りやすい野暮ったく場末感が漂う「親父の店」とは全く違う、それは「彼女の店」だった。
乳飲み子の頃にカンボジアからパリへと出てきた彼女は、この街で育ち、パリの流儀を身に付け、代替わりとともに「パリのファストフード店」をつくったのだ。人にも、店にも歴史がある。気ままな旅行者はその断片を見て、ただただその前後を想像することしかできない。
また今日もノートルダム大聖堂に祈りを捧げてから帰ることにしよう。そう思った。

2019年4月、ノートルダム大聖堂で大規模な火災が発生した。

炎と悲鳴に包まれた衝撃的な映像が繰り返し流れたが、その後のニュースは散発的だ。しかしパリに暮らす人、またパリを離れて暮らす人にとって、今も祈りを捧げる対象であり、精神的支柱であろうことは想像に難くない。私もまた、心の中のノートルダム大聖堂に、パリで出会った人々の顔を思い浮かべ、その安寧を願って祈りを捧げることにしよう。

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